坂東三津五郎 (8代目) (Mitsugoro BANDO (the 8th))

八代目 坂東 三津五郎(はちだいめ ばんどう みつごろう、1906年10月19日 - 1975年1月16日)は、歌舞伎役者。
また、日本の俳優。
坂東三津五郎 (7代目)の養子。
本名、守田 俊郎(もりた としろう)。
青年期より敵役、老役を得意とした。

来歴
1913年(大正2年)、市村座の「奴凧」で三代目坂東八十助を名乗り初舞台。

1928年(昭和3年)6月、明治座の『鞍馬源氏』の牛若丸で六代目坂東蓑助を襲名。

1932年(昭和7年)、劇団新劇場を設立。

1962年(昭和37年)、歌舞伎座の『喜撰』で八代目坂東三津五郎を襲名。

1973年(昭和48年)、重要無形文化財各個指定者(人間国宝)に認定。

1975年(昭和50年)1月16日、京都南座の初春興行に出演中に死亡した。好物のトラフグの肝による中毒で急死。
好物のトラフグの肝による中毒による急死だった。
68歳だった。

人物
歌舞伎に限らず、近代劇の創始者のひとりである小山内薫の影響を受けて、1932年(昭和7年)には劇団新劇場を設立している。
その後は東宝、関西歌舞伎を経て再び東京に戻った。

また、孫の坂東三津五郎 (10代目)の回想によると、八代目三津五郎は、読書家・博識家としても知られていた。
役作りのために国立国会図書館に連日赴いて資料を探したというほどの勉強家であったという。

加えて、八代目三津五郎は美食家としても有名であった。
自身ドンクのフランスパンが大好物だった。
他にも、孫の十代目三津五郎がまだ少年だった頃、誘われるままに一緒に札幌ラーメンを食べた。
この後で八代目三津五郎は「世の中にはこのような美味い物があるのか」と驚いたという(出典:週刊『人間国宝』、朝日新聞社)。

東宝劇団時代に伊藤雄之助を自殺する寸前にまで追い込むなど厳しい態度で臨んでいる。
ただし、「結局は本人のためになる、いわば愛の鞭なのだ」とその事について人に漏らしていた。
後年伊藤が大成してからは優しくなったという。

フグ中毒
八代目三津五郎の急死は、以後「フグ中毒」といえば「三津五郎」の名が必ず例にあげられるようになったほどの大事件だった。
この一件は、危険を承知の上で毒性の高い肝を実に四人前も食らげた三津五郎がいけなかったのか、フグ調理師免許を持っているはずの板前の包丁捌きがいけなかったのかで、従前にはなかった大論争を引き起こしたことでも名高い。
この事件でも、もう一皿もう一皿とねだる三津五郎に、板前がしぶしぶ料理を出したことが問題となった。
当時はまだフグ中毒事件を起こした調理師に刑事裁判で有罪判決が下ることは稀だった。
しかしこの一件では、「しぶった」板前が「しくじった」ことに変わりはないとして業務上過失致死罪、及び京都府条例違反とされた。
執行猶予付の禁固刑という有罪判決が出た。
「痛み分け」となり、世間を驚かせている。

家族
女婿に坂東三津五郎 (9代目)。
孫に坂東三津五郎 (10代目)と女優の池上季実子、甥に岸澤式佐11代目がいる。

[English Translation]